株式会社HUGEの新川義弘さんは、僕や菅原が在籍したグローバルダイニングの元取締役で、2002年の日米首脳会談の際に、小泉首相とブッシュ大統領を接客した、伝説のサービスマンであり、飲食業界の偉大な経営者の一人です。その新川さんは、何千回とホールに立っていらっしゃいますが、「完璧なサービスを提供できたのは、たった一度しかない」と語っていました。ホール・キッチンのスタッフ全員が心を一つにし、お店に来たお客様を一人残らずレストランでの時間に感動させることができたという実感、それは何十年というキャリアの中でたった1回しか無いというのです。新川さんは、その日の営業が終わった後、一人で涙を流したそうです。僕は、この話にとても共感します。僕は、まだ一度もその経験がありません。ホール・キッチンのスタッフ全員が、完璧なオペレーション・完璧なリコグニション・完璧なアンティシペーションを発揮し、お客様がオーダーをしなくても全てのサービスが完璧なタイミングとクオリティで提供できている状態。もはや、超能力の世界、不可能の世界です。けれど、その世界こそがジリオンが目指すCS100なのです。
CS100に辿り着くためにまず大切なことは、ホール・キッチンという立場を超えて、お店のスタッフ全員がCS100を目指すという状態をつくることです。かつて僕がジル目黒のバーカウンターに立っていた時、パスタを注文されたご夫婦がいました。おしゃべりに夢中で楽しそうに過ごされていました。これだけおしゃべりに夢中であれば、あらかじめパスタを取り分けた状態でお出ししようと思い、キッチンにハーフで提供するようリクエストしました。まだジリオンの中に「ハーフ」という概念がない時代の話です。
当時キッチンには初代総料理長である熊谷と、後に2代目総料理長となる山本がいましたが、そのリクエストに難色を示しました。「できない」「ハーフにすると料理の見た目が美しくなくなる」という返答でした。僕は「後で俺をぶん殴ってでもいいから今はつくってくれ」と伝えました。創業メンバーの一人である熊谷、後に総料理長を務めた山本は、CS100についての意識が相当高いプロフェッショナルです。それでも、キッチンにいれば、いつもお客様を見えるわけではありません。目の前の料理を作ることに意識がいってしまう。ホールに立つ僕の方が、お客様の状態をつぶさに感じられている。「いま・ここ」という瞬間のCSに責任を持っている者として、衝突を覚悟でリクエストをしました。
幸い、熊谷や山本に後から殴られることはなく、むしろ熊谷や山本はお客様のために何かできることがないかという提案を、それまで以上にたくさん出してくれるようになりました。お店の全員がCS100を目指すという状態をつくるために最も大切なことは、ホールとキッチンの垣根を取払い、チームメンバー全員がお客様への感動提供実現にフルコミットをする事であり、その感動提供の基準を示し発信するということです。その役割を果たすべき責任の一番はホールスタッフです。最前線でお客様を見ているホールスタッフが、CS100という基準を示し発信することが大切です。もちろん、ホールスタッフ以外のキッチンスタッフも、お客様への感動提供の為の意見やアイデアを発信することに、何の問題もありません。高い基準を目指すプロフェッショナルチームとして、遠慮なく互いにリクエストし合いましょう。
CS100を実現するために大切なこと、もう一つはワンサプライズです。ワンサプライズは、ジリオンにとって非常に大切な考え方・アクションです。だからこそ、その基準を高く保ち、CS100を実現するための高次元のワンサプライズを目指す必要があります。「誕生日だからプレートを出す」「アンチョビキャベツが冷めたから温め直す」がワンサプライズではありません。ワンサプライズは、『当たり前の追求・凡事徹底』=『NORM CORE〜ノームコア〜』の先にあるものです。オペレーション・リコグニション・アンティシペーションが揃って初めて、発揮できるものです。マニュアルのような行動の先に、決してワンサプライズはないのです。
例えば、アンチョビキャベツがテーブルで冷めている。それを見て、何も考えずに温め直しても、ワンサプライズにはなりません。残っているのはなぜなのか。もしもお口に合わなかったのだとしたら、温め直されてもお客様は迷惑なだけです。お口に合いませんでしたか?と聞けば多くのお客様は気を使って「そんなことないです!」と言ってくれるでしょう。だとしたらその質問をマニュアル化することにも意味はありません。
アンチョビキャベツを食べた一口目にどんな表情をされていたのか。食べ進まなかった理由は何か。お客様同士の中でどんな会話が交わされたのか。目配り・心配りの先に、最適なアクションがあります。常連さんがカウンターに座る。いつも1杯目はビールで泡は少なめ、そこからウィスキー、チェイサーはロックなし。完璧なリコグニションをしている上で、暑い日中を過ごしてかすかに汗で濡れたシャツ、仕事でお疲れの喉が乾いた様子を察して、ビールとウィスキーの間にレモン多めのサワーを。「なんでわかったの?」という驚きと笑顔を頂けたら、それはワンサプライズです。
お客様が口に出してリクエストしたことに応えても、それはただのオーダーです。お客様が思っていることを先回りできて、更にお客様自身も気付いていないような衝動にアプローチできたら、ワンサプライズが生まれるのです。ワンサプライズのためのマニュアルは存在しません。状況に応じて、最適な答えが変わるからです。高度なレベルでオペレーションとリコグニションを行い、その上で空気を察知し、お客様の感情に寄り添い、アンティシペーションをして初めて、ワンサプライズに辿り着けるのです。
CS100は「市場価値の高い人材になる」という意味でも非常に重要です。2020年にベストセラーとなった「10年後に食える仕事 食えない仕事」という書籍では、世の中の仕事を「人間が強い」⇔「機械が強い」、「知識集約的」⇔「技能集約的」という軸で整理しており、料理人やウェイターは「人間が強い」「技能集約的」な仕事に分類されています。「論理的な正しさ」だけでは解決できない「感情」や「感動」に触れる仕事は、機械やコンピューターには代替不可能な感情労働です。社会にあるあらゆる仕事の中でも、飲食という仕事が今後市場価値が高まっていくのは間違いありません。その上で、CS100という感情労働における究極の目標・基準を目指すジリオンという職場は、市場価値を高める場として最高峰と言えると思います。だからこそ、思考を止めたマニュアル的仕事に引きずりこまれることなく、ジリオンにしかできない、あなたにしかできない仕事にこだわってほしいと思っています。
僕はあんまり熱い雰囲気が好きなタイプではないのですが、朝礼の時間は好きです。ライブが始まる前のような緊張感と高揚感。「最高の時間をつくる」と意気込みながら、それぞれが腕をならして構える姿。僕らの仕事がライブだとするならば、「いらっしゃいませ」が最初の歌詞です。生活の中のあらゆる選択肢の中から、数多あるお店の中から、ジリオンを選んでくださって、本当にありがとうございます。最高のライブをするので、ぜひ楽しんでいってください。そんな気持ちが「いらっしゃいませ」にこもるはずです。
お店から帰るお客様への「ありがとうございました」が最後の歌詞です。来てくださったことへのお礼、楽しんでくださったことへのお礼、またぜひ来て下さいという気持ち、その全てが「ありがとうございました」にこもるはずです。「お客様の目を見て挨拶を」なんてマニュアルを、ジリオンにはつくりたくありません。CS100を目指すプロフェッショナルである僕らには、そんなこと当たり前だからです。
ジリオンはCS100を目指します。ジリオンはCS100に辿り着いたことがないからです。けれど、僕らほど一途に、懸命に、傍から見ればバカみたいに、CS100を目指す奴らはいません。僕らが不可能の世界に辿り着き、ジリオンにご来店された全てのお客様が奇跡のような時間を過ごす日のために、CS100という旗を掲げ続けたいと思います。